2019年2月26日火曜日

「フル」と「エンプティ」再論

北米系のインストラクターたちがよく使う「フル」と「エンプティ」。

これは自分の回りのインストラクターたちも解釈が違っていて、
「昔、ブラッドはフルと言っていたが、最近はエンプティになった」とか、
「エンプティはテンションのない状態で立っていることで、
ストライク売ったり動いたりする時がフル。フルとエンプティを使いわける」とか、
人によっても言うことが違うような気がします。

[Full(満ちている)」と「Empty(空)」は相反する概念のため、
違うものだと思われがちなのですが、自分は同じものだと思っています。
この辺の考えについては、2017年7月10日のこのブログにも書きました。

今回、改めてクオンにも聞いてみました。クオンいわく、
「太極図って知っていますか? あれのようなものです」
太極図ということは、エンプティがフルになり、
フルがエンプティになる、ということだと思います。


↑太極図

自分の考えは、クオンと同じかどうかは分からないけれど、
最近はエンプティとは体の状態で、フルとはその人の存在感だと思っています。

ザイコフスキーは今回のセミナーで、「ライトで、クリアな感覚」で動くことを
強調していました。
この「ライトで、クリアな感覚」こそがエンプティなのではないかと思います。
それにはザイコが散々言っているように、
「頭をからっぽ」にする必要があるのでしょう。

一方で、フルというのは、昨年ザイコセミナーでやったワークのようなものです。
自分が座っている→相手が近づいてくる→自分が立ち上がることで、相手が止まる。
これは自分の存在感が相手の中を変えているのだろうと思います。

ライトな動きで、存在感がフルというのは、分かりにくいかもしれませんが、
大リーガーのイチローのようなものでしょう。
存在感があるけれど、動きはライトでクリアです。

11月のヴラディミアのセミナーで、
ヴラッドが近くに来ても全く分からないことがありました。
あれは「フル」のスイッチを、オンオフ自由に変えることができたのでしょう。

いろいろ考えだすと、わけがわからなくなるシステマですが、
だからこそ、非常に面白いんですよね。

2019年2月21日木曜日

ザイコフスキーとの会話(承前)

「相手に共感しろ」
「暴力を振う人間にもそうせざえるをえない事情がある。それを感じ取れるようになれ」
それがザイコフスキーの言うところだが、
常人には共感できないほど深い闇を抱えた人間も世の中にいる。

だから、その次に以下のような質問をしてみました。
「だいたい突然襲われたら、共感できるも何もないと思う」

すると、ザイコフスキーはこう言います。
「以前、ミカエルもセミナーで、そのような質問を受けました。
ミカエルは言いました。unconscious(意識を失う、無意識)なるだけだ」

この場合、ミカエルほどの人物でさえ襲われて意識を失うのか、
無意識になって相手からの攻撃に反撃してしまうのか、よく意味が分かりません。

とりあえず、こう質問しました。
「ミカエルだったら、unconsciousですむかもしれないけれど、
自分だったら死んでしまう」
すると、ザイコはこう言います。
「あなたの肉体は死ぬかもしれないけれど、あなたという存在は死ななない。
あなたのやろうとしていたこと(相手を理解しようとしていたこと)は、
神は見ている。あなたのやろうとしたことを神は認めてくれる」

何か宗教的な話になってしまいましたが……。
しかし、ここで私が深く感じいったのは、
ミカエルが言ったという「unconscious」が
死という概念も含んでいるということでしょう。

私とザイコフスキーの会話は、傍からみると、かなり宗教的な、
いかにもロシア正教をバックボーンにしているシステマならではの会話のようにも
思えますが、その実、武術の奥義を表しているかもしれません。

もし相手を完全に感じ取り、それに応じていこうするのならば、
死を恐れていてはダメだということなのかもしれません。

システマでは恐怖を克服することも様々なワークで練習していきます。
人間にとって最大の恐怖とは死です。
相手を真に理解していこうということは、自らの死に向きあうことであり、
武術の真理はその先にあるのかもしれません。

2019年2月19日火曜日

ザイコフスキーとの会話

ザイコフスキーの言うことは、要するに暴力とか振るっている人間は、
「魔」に魅入られていることです。
システマのストライクとは、その「魔」を吹き飛ばすものだということなのでしょう。
ストライクによって、その人本来の「善」性を取り戻させるとも言えます。

欧米人は日本人と比べると、性悪説の人が多いように思えます。
日本人は性善説に立つ人が多いので、こうしたザイコフスキーの説明について、
納得できると思う人がいる一方で、スピリチュアルとか宗教的なことが嫌いな日本人も
多いので、嫌悪感や抵抗感を示す人も多いのではないでしょうか。

ともあれ、ザイコフスキーの考え方はキリスト教的な影響が伺われます。
東方正教的なのかもしれません。

暴力を振るっている人に共感に示し、「なぜ彼がそうなっているか」を理解したうえで、その要因となっている見えざるものをストライクで吹き飛ばす。

たとえそんなことができたとしても、
暴力を振るうあらゆる人に共感を示せるものでしょうか?

世の中には、暴力を振るうことに喜ぶを感じている人もいます。
他人を壊すこと、他人を不幸にすること、それに良心の呵責を感じない人もいます。
そんな人までも理解できるものでしょうか?

懇親会では、ザイコフスキーにそんなことを質問してみました。

ザイコフスキーは言います。
「なぜ、彼がそうなってしまったのか。
もしかしたら、すごく不幸な生い立ちがあったのかもしれない。
辛い目にあってきたのかもしれない。
そうした彼の人生と比べれば、あなたの人生はどれだけ恵まれたものかもしれない。
あなたはただ、たまたま自分は彼のようにならなかっただけかもしれない。
そう考えれば、たとえどんなにひどい人であったとしても共感できるのではないか」

確かに、それは理想です。
でも、本当の犯罪者、殺人鬼と言われているような人間には、
そもそも「人間として壊れている」人がいることも事実です。
理解しようと思っても、共感しようと思って、
常人には、想像もつかぬような闇を抱いている人もいます。
そうした人間についても、ザイコフスキーは共感すべきだというのです。

しかし、相手を理解しようとしているうちに、スキが出来て、
殺されてしまったら、どうするのか。

そんな疑問も続けてぶつけてみたのです。
(続く)
特別クラス終了後にザイコフスキーと。ジャパンの本部で。何か疲れている。


2019年2月18日月曜日

ザイコフスキーセミナーとストライク

仕事が昨年暮れからガラッと変わって、なかなか調子が出ません。
そこへ持ってきて、3週間週末ぶっ続けのセミナーで、
なかなかブログが更新できませんでした。

クオンセミナーの感想を期待されている方もいると思うのですが、
とりあえず、2月の第1週目と第2週目に行われたザイコフスキーセミナーから
感じたことを――。

今回のザイコフスキーの大阪セミナーは個人的には非常に面白かったです。
先週末(2月16日)のシステマ湘南でもシェアしたのですが、
誤解されてしまうようで書くのが怖い部分もあるのですが、
要はストライクをしてくる相手も「彼自身、その人として見よ」ということです。

たとえてみれば、幼子が泣きじゃくって親に反抗してきても、
「何か訴えたいことがあるんだな」とか、子どもを理解しようとするじゃないですか。

同じようにストライクを打ってくる人間をも理解する。
理解したうえで、その「なぜ相手がストライクをしてくるのか」という原因に
アプローチするのが、こちらが打つべき「本当のストライク」だというのです。

子供が泣いて暴れているのは、もしかしたらお腹が空いているからかもしれない。
だとしたら、その子の「そこ(原因)」にアプローチする。
言い換えれば、そこできんとしたアプローチがでれば、
子供は「あっ、こんなことをしていてもいけない」と
思って、泣き止み、暴力も終わるかもしれません。

私達が目指すべきストライクは、そんなアプローチができるストライクだという。

ただの理想論のように聞こえるかもしれませんが、ザイコフスキーの打つストライクは
それこそ自分自身というものを根こそぎもっていかれるというのか、
自分の芯に響いていくようなストライクです。

肉体に打つのでもなく、心に打つのでもなく、その人の本質に打つというか、
そんな感じのストライクなのです。

だから、ザイコフスキーは言います。
「相手があなたに攻撃してくるのは、
あなたが相手に対して何か悪いことをしたのかもしれない。
何らかの原因があなたにあるはずです。
だから、あなたはそのストライク(攻撃)を罰として受けないといけない」と。

そして、そのうえで相手を理解して、相手の怒り、攻撃するという動機になっている、
「何か」をストライクによって、「何か」を相手から消して、相手を変えていく。

昨日までの残虐な殺人者を、急に善人に変えるような話なのですが、
そんなことが本当に出来るのか。
しかし、それが本当にできると思っているのが、ミカエルであり、
ザイコフスキーであり、だからこそ、彼らのストライクには力があるのでしょう。
(続く)
 
 大阪セミナーに参加した湘南からの皆さんとザイコフスキー。